▲上記のことから答えていきます。▲
ハレルヤ!クリスぱんだ(@jesus153blog)です。
聖書を読んだことがある人はわかると思いますが、聖書は矛盾だらけじゃないですか?
僕も毎日聖書を読みますが、確かに矛盾が起きると混乱する時があります・・。
今回、そんな矛盾だらけな聖書に焦点を絞って「なぜ聖書に矛盾なのか?」「矛盾した場合の解決策」について記事をまとめました。
聖書の矛盾点でモヤモヤしてしまったら、是非当記事から参考にしてみてください!
本記事でわかること
☑️なぜ聖書が矛盾だらけなのか?
☑️聖書が矛盾する理由と闇の力
☑️聖書からのメッセージ
Contents
なぜ聖書は矛盾だらけ?と思ってしまう理由と答え
聖書がなぜ矛盾だらけと思ってしまうのか?その矛盾の理由と答えを解説です。
- 聖書の内容の矛盾点
- 教えの矛盾点
- 聖書には無数のメッセージがあるための矛盾
では解説です。
聖書の内容の矛盾点
聖書の内容的に確かに違うことを言っていたり、どっからきた?って話が複数あります。
全部探すと1年以上はかかってしまうのでキリがないので全部は紹介しませんが・・例を出してみます。
例)エリコでイエス様が盲目の人を治す話。→マルコとマタイでは目を直す人数が違う。
『それから、彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。』(マタイ20:29〜34)
『それから、彼らはエリコにきた。そして、イエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。イエスは立ちどまって「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った』(マルコ10:46〜52)
イエス様が盲目の人を目を癒す話ですが、マタイの福音書は2人、マルコの福音書はバルデマイという人、ちなみにルカの福音書は一人の盲目です。
聖書には矛盾点があります。
ですが、よく考えてみると聖書ができた過程(約1600年の時間で聖書ができた)でいろいろな出来事が想定できるので人数の誤差も普通にあるのかとも・・・考えられます。
▼マルコの福音書▼
画像引用:クリスチャントゥディ
穴開いてますよね?あり得ます。
教えにも矛盾がある
聖書の教えにも矛盾もあります。
例えば、イエス様を信じると救われる話。
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。(ローマ10:9)
ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒の働き16:31)
神が御子(イエス・キリスト)を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。(ヨハネの福音書3:17〜18)
この文章からでも「えっ神がイエスを蘇らせたことを信じるの?」「イエス様を信じるの?」など、どっち疑問が起きたりします。
この答えについては👉「イエス様を信じるという事はイエス様の言葉の一つ一つに信頼を委ねること。また罪の赦しと永遠の命を与えるために十字架で死と復活を遂げたイエス様を信じることで、私たちの罪がもたらす結果=地獄行き(死)から救われ罪の赦しと永遠の命を与えられることだ。」と解釈されていきます。
補足的な要素で他で書かれていることもあります。
聖書には無数のメッセージがある
聖書には、神様のメッセージは複数あるので全ての情報を見ちゃうと矛盾することがあります。
例えば、罪を犯して嘆き苦しむ人には「顔を上げなさい。あなたの罪は赦されました」と言いますし、罪を軽く見てその都度悔い改めば許されるんだ!と罪の意識が薄い人には「心を入れ替えて悔い改めれば赦されません」とも厳しく言います。
聖書は御言葉(メッセージ)だらけなので、ケースバイケースで神は、それぞれ必要な御言葉を与えらるので矛盾してしまうところはあります。
「中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。」(マルコ2:9)
聖書や教えで矛盾が起きる理由と心は簡単に曲げられてしまう
さらにキリスト教の教えの歪みにもお答えしていこうと思います。
聖書の矛盾点が見つかると「聖書って嘘つきじゃなねーか!何が言いたいんだよ」と思うかもしれません。また人間による偽装だって起きてしまいますし、結果「聖書はカルト組織だ」となってしまいます。
僕は聖書に疑いはないのですが、もし・・疑いを持ってしまったら下の御言葉を読んでみて先を読み進めるか決めてみてください。
そして、聖書の預言は、人が勝手に書いたものではなく、「人間の意思によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」ものです(2ペテロ1:21)。
「悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない。」(箴言4:19)
「それゆえ主はこう言われる、『見よ、わたしはこの民の前につまずく石を置く、人々は父も子も共にそれにつまずき、隣り人もその友も滅びる』」。(エレミヤ書6:21)
では、教え・真理が歪んでしまう理由を探しました。教えも含めます。
- 悪の力が働いている
- 正しい姿勢で聖書を読めてない
- 化学や人間に知能で解釈しちゃう
- 情報を過信する
では解説。
悪の力が働いている事実を知る
悪の力が真理をねじ曲げています。いきなりぶっ込んですいません(笑
この世界は、光があり闇があります。地球は現在不安定な光と闇の中立の世界です。
信じる・信じないとは別で悪霊の存在があります。
「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」(マタイの福音書12章43-45節)
オカルトやホラー映画の世界がリアルにあります。
この箇所が何を言いたいかと言えば、悪霊は心に入り込むと言うことです。
つまり、信仰心がなければ疑いが起き悪霊に隙を与えると言うこと。悪霊に心を支配されれば正常な判断を失い、正義を見失い、そして知らぬ間に真理を嘘と思い込みさせ、真理を悪にします。
「なぜ聖書(神の言葉)を信じれず、悪は信じれるのですか?」って話です。→悪の行動はわかりやすく大胆だからです。だから目に見えた犯罪があるんです。
参考に👉悪霊とはなんですか?聖書と実体験から解説!悪霊の基礎情報と奴らを追い出す方法もご紹介
参考に👉聖書から悪魔についての情報と攻略法【まとめ】これで悪魔の罠が知れる!神の武具の御言葉も・
正しい姿勢で聖書を読めていない
聖書を読むときは信仰を持って聖書を読む事をおすすめです。
矛盾を探せば、本来の聖書の目的では無くなります。
聖書は純粋に読めば調和のとれた本になりますので、幼い気持ちで本を読むことをお勧めします。
間違い探しをするなら本当のメッセージは見えてきませんよ。
科学を信じる?人間に知能に頼る?
一切の疑いを捨てて聖書の言葉を信じるのがベスト。
正しい目で聖書を読むことができれば、神の美しさに触れられます。
矛盾があれば疑いがでますが、神の言葉?人の知識?どちらかを信じるかで分かれます。
念を押すと神様を信じることがおすすめかと。
その理由は、人間は不完全で神は完全であるため神の知識は信用ができます。
・科学を信じるということは👉不完全な人間の判断や頭脳を信じる
・神を信じる👉完全なお方(神様)がおられ、神様に信頼を置いていく
となります。
神様を信じればの話になりますが、人間は誤認識や誤判断などミスをしますので神様を少しでも信じるなら聖書に疑いを捨てるのがいいかもしれません。
▼参考箇所▼
「それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ人への手紙1:19〜20)
次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。」(ローマ3:10)
情報を過信しない
情報が多くあります。惑わされててはいけません。
僕も反省する点なのですが、情報は全て過信してはいけません。
疑いを誘発させる情報、疑いを確信させる情報。情報を過信すると何が正しいのか?判断できなくなります。
世から出た情報や知識は不確かです。
本当にこの自分の疑問が正しいのか?見極めていくのも大事。
「また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。」(マタイ18:5〜7)
「そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マタイ24:4)
そんな時は、自分の心を信じることです。
できれば聖書を手にして。
もう一度立ち止まり、よく考えて直感や霊に聞くこと、信じることです。
霊に聞く?👉聖霊様とは?聖書と聖霊様から情報をまとめ|聖霊様の疑問→働き・役割・授かり方を完全公開!
神様はいつもあなたを待っている
神様は、真実のお方です。矛盾で疑いがある心に御言葉を集めてみました。
聖書の矛盾点を探してしまう人への御言葉
神様はあなたの帰りを持っています。
「イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。」(マルコ2:8〜9)
「そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。」(ルカ24:38)
聖書は真実である
神様は正しい人です。
「イエス・キリストは、聖書を、「神の口から出るひとつひとつのことば」と呼びました」(マタイ4:4)
「そして神は真理です」(ヨハネ14:6)
「神は嘘をつくことができません」(ヘブル6:18)
「さらに、聖書は、神の霊感を受けて書かれました」(2テモテ3:16)
「そして、聖書の預言は、人が勝手に書いたものではなく、「人間の意思によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」ものです」(2ペテロ1:21)
聖書で矛盾点を探さない
矛盾点を探そうとするとキリ無く無数に矛盾点が出てくると思います。
たまたま見つかってしまえば仕方ないですが、恐らく探せばたくさん無数に出てきます。
なので矛盾点を探しても意味がないです。
その理由は、聖書ができるまで期間は約1600年の時間がかかっていて、さらに全て聖書は霊感によってかき集められた書物。訳した人もいます。その時の情勢背景、時代、ターゲットも変わってきます。
最終的に人間が聖書をまとめましたが、もはや理解不能です。
神様が私達の暇つぶしのために約1600年の時間と多くの人間を利用し、間違い探しをさせるために聖書を与えたわけではないと思います。
むしろ、ここまで神様自身についての書を綺麗にまとめたのは、奇跡かと思います。
聖書を読むのに大事な事は、聖書は矛盾を探すのが目的の本ではありません。聖書は神の愛の現れであり私たちの救いのために与えられた恵の書です。
「神はそのひとり子(イエス・キリスト)を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」(Ⅰヨハネ4:16)
難しい方は、もう少し時間を置くとわかる時がくるかもしれません。
一人でも多くの魂が救われることをお祈りしています( ^ω^ )ノ
セットで読みたい👉聖書がなぜ信じれる?宗教大っ嫌いな僕が、気づけばクリスチャン歴15年になってた僕が証します
こちらも読まれています👉携挙とは?聖書で悟れ!携挙の順番と携挙がおきた時に私たちがとりこぼしがないようにすること
矛盾してないでしょ
浅く読んでるから矛盾して見えるだけ
コメントありがとうございます。
当記事は一般的な意見から中核をとって書いていますので、万人読めば万人の受け取りがあります。
匿名さんみたいに聖書を熟知されて神の意図が繋がり理解できる素晴らしい方もいれば、ちょこちょこ読んで矛盾だらけに感じる方もいます。
なのでこういった方に知恵が授かるように一緒にお祈りして頂けると幸いです。
宗派や教団によって聖書は意図的に書き換えられ続けています。意図的でない写本ミスもあります。写本のどれかが真実であれば、他の聖書は偽りになります。そして現代に真実の聖書が伝えられている保証はどこにもありません。ユダヤ教の中にも様々な教派があったのですから。
そもそも翻訳の過程で意味が変化したり失われたりもしています。初期のキリスト教聖書はラテン語で書かれていました、ですがそもそも新約聖書はギリシャ語(この原典は失われた)、旧約聖書はヘブライ語で書かれていました。更に現在我々は各国の言語で聖書を読んでいます。かなり意味が変化しているのです。
つまり、我々の読んでいる聖書はどこかが確実に間違っていて、それを確認する方法はありません。ぜいぜい推理を働かせ、文言を疑いながら読むしかないのです。
みなさん、気をつけて道をお進みください。
情報提供ありがとうございます。